昭和48年12月07日 朝の御理解



 御神訓 一、道教えの大綱
 「生きても死しても天と地とはわが住かと思えよ。」

 確かにそうだろうと思います。地獄の果てであろうが、極楽であろうが、根の国底の国というか、やはり天地以外にはなかろう。天地の中にあることだと思うです。そこで生きても死にても天と地はわが住かと、この世でも矢張り幸せをすると言う事は、心が平常心というか喜びというか、安心というか、そういう心の状態を頂いて、人間のいわば全ての幸せの条件と申しますね。
 健康または物やら金やらにも、人間関係、様々な意味での矢張り幸福の条件と言った様なものをそなえておかなければ、いわゆる幸せとはいえませんように。なら死しても、やはり同んなじことがいえるわけです。生きても死んでも天地はわが住かであるならば、その天地のどこに住まわせて頂きましても、私共が幸せになれれる道、それが私は宗教で、宗教の使命である。
 又教祖生神金光大神もそれを教えておられると思うですね。金光大神御理解抄、これにこういうこれは教祖様が、ある方に教えておられるのが出ておりますから、読んでみましょう。馬は馬連れ牛は牛連れと言う事がある。神の取次は神がするのじゃ。真の信心ある者は、神なり故に神の取次が出来るのじゃ。狐や蛇や鳥のようなものが、何で神の取次が出来るものか。
 何の神は狐が使わしめ、何の神は蛇が使わしめ、いろいろなことを世の人が言うが、金乃大神は、神の子の人をもって使いとなさるのじゃと、言う様なふうに書いてある。これを読ませて頂きますと、本当にそうだと思うますね。神様は狐を使うとか、いろいろ言いますよね。鳥を使うとか蛇を使うとか、そういうのは神じゃない。神は神の子であるところの人を使うと言う事。言う事だとだから真の信心あるものは、神なりと言う事を言っておられます。
 大体は本質的に私共は、神の氏子としての、おかげを受けておるけれども、その人間がいつの間にか、人間で姿としておるけれども、いわゆる性が変わってくるというかいうならば、我情我欲で汚れてしまって、人間のいうならば、本当の姿、いうならば神性とでも申しましょうか、その神の性というものが、いつの間にかその無くなってしまって、似ても似つかない、いわばことになっおるいうのが、信心のない人達の大体の姿じゃないかとこう思うです。
 なら信心のあるものが皆んなそう言うならここで、信心あるものは神なりとおっしゃっておられますね。真の信心ある者は神なりとこう仰っておられる。これはやっぱり我情我欲のつっぱった信心だけであるとするならね、それは私は一寸、言うならば、神の子でありながら、我情我欲に包まれておるのですから、もう神性というものから、人間の霊性というものを発揮する事は出来ない。
 この世にあって私共がその神の性を増々神の性いわゆる、神の子は神の子としての値打ちを頂いておかないと、いわゆる生きても死んでも天と地はわが住かとおおせられるのですからこの世で幸せを受ける事が出来れるように、あの世でもまた、なら幸せを受ける事のために出来るように、いよいよ真の信心をさせて頂いとかにゃならんと言う事になりますですね。そうでしょう。
 東京の白神新一郎という先生に、もう教祖様の御時代にだんだん、信心が進とそれぞれに神格を与えられとりますね。金光大神とか、明神様とか言う神格を与えておられた。ところがその時分には神格を与えると言う事が、まあいうなら公にすることが出来なくなった時分らしいですね。白神先生は、白神という神という字が、白神と書いて、けども神様の神と書いてしらがとせよと、いうならば御神格を下げられたわけです。
 そして生きても神、死しても神と、おっしゃったということであります。私共もだから、生きても神、死しても神というおかげを頂くと言う事はです、私共は真の信心によらなければ、おかげは頂かれん。只、おかげ、おかげそれは、おかげを頂くと言う事はですね、私は昨日末永先生のところの壱岐の方の教会の六十年の記念のお祭りがありまして、こちらから兄弟三人、兄弟二人ですか、帰りがけは兄弟三人で、丁度明くる日が四日の日が神愛会でしたから、飛行機で一緒に帰って来とります。
 そしてその御直会にあちらの教会の、そもそもの頃からのこと、私は昨日驚きました。そればってが、あのあちらの先代は、日清、日露の戦いに参加しとられます。そしてあの第三軍の乃木大将の率いられる軍隊に入っておられます。そしてあの旅順攻略の時にも、旅順攻略の時第一、一番乗りが末永先生のおじいさんだったそうです。それはもうそれこそもうわゆる肉弾といわれたんですけども。
 もういくらこちらが鉄砲を撃っても、そのなんと言うですか塹壕の中のコンクリ-トの厚いとの中に撃つだけで、結局肉弾をもって乗りこんだと。その占領されたと言われておりますよね。旅順攻略はその時の一番乗りが、あの末永先生のおじいさんだったという。ほうそんなこつじゃったばいのと思うて、下がらせて頂きましたらですね、丁度テレビで旅順攻略の、その当時のもか何かしりません、白黒のあれですね。
 第三軍その乃木大将の率いられる、何がこげん大変難しかっんたかというニュ-スか何かしらんけども丁度、旅順攻略のところがあってましたです。いや本当今読ませて頂いたことが,もうここであの中で違わんあの中に一番に入っとられた。その時分映画にとったはずはありませんけれども、まあそれは何かでしょうけれどもですね、その場面が丁度、一寸した瞬間でしたけれども、一、二分間あっておりました。
 まあ余談になりましたけれども、そのお伝記を読ませて頂きますと、これは壱岐の教会だけの事じゃありません。例えば私の親教会である三井教会のことであっても、どこの教会であっても、もうそれは初代の難儀苦労というものはもう、それは大変なものですね。ですからそれによって、やはり人が助かっております。いうならば、もうあられもない行をしながら、やはり道びらきというものがなされると言う事がわかります。
 それがでですね、例えば、そういう難行苦行をさせて頂きながら、昨日あの、昨日の晩から見えとった昨日の朝の御祈念もここで頂いとりました、信州の何とか教会ですね、上田教会の大変有名な先生です、教会です、そこなんかの教会のお道のひらける時なんかの、話を聞かせて頂きましたがもう、それこそ本当なもう事じゃあるじゃろうかと言う様な修行して、やっぱり教会がひらけております。
 ですからその一生懸命になって縋ったり願ったり、その荒行の一つもさして頂いてすればおかげが受けられるというこれはもう事実です。けどそれが真の信心とは思われないと言うことです。なら沢山の教会が沢山出来ましたがです、ならそういう、なら先代の時にはそう言う修行がなされて人が助かった、けれども二代になり三代になって、大した事はないと、只金光様の看板をかけとるから、ようよう金光様の信心を維持しとる教会が沢山あると言う事です。
 だからそういうのはですね、そういうものを金光様の御信心の中ではありましょうけれども、金光様の御信心と言われるところの、真の信心というものは、例えはおかげを頂くというとこだけに終始した信心では、真の信心とは言えないと、生きても死んでも、生きても神、死にても神といわれる、いうならば、神を目指すところの信心でなけれは駄目だと。わが心神に向うて行く信心でなからねば駄目だと。
 それは一生懸命拝んだり荒行したり、その荒行によって人が助かったと言う様な事では駄目だと なら此処でもそれが言えます。只一生懸命お参りをする御用をさせてもらう、そしておかげを受けておるというおかげでは駄目だと。それでは、いうならば私は、生きても死にても天と地はとはわが住かと、確かにそうであろうと思われます。けれどもです、生きておる間は、そういう言うなら一生懸命信心しておかげを受けたにしても、それではあの世に持って行くのではないということ。
 わが心がわれながら、拝めれる心、いうならば、和賀心、和らぎ賀ぶ心、そういう心が自分の心の中に育っていく事が楽しみの信心でなからなければです、おかげを受ける事が楽しみの信心では、いわばあの世、この世通しての助かりはない。生きても死にても天と地とはわが住かであるならば、ある程にそれがわかればわかる程に、この世で頂いておるおかげはあの世まで頂き続けて行けれるところの信心、それはです、教祖も仰って」おられる真の信心をする者は神じゃと教えておられます。
 真の信心ある者は神なりとおっしゃとられる。皆さんが合楽に御神縁を頂いとるから、皆さんが、皆真の信心しとると言う事じゃないのです。参りゃ参るがたあるもんの、一生懸命なりゃ一生懸命になるごとおかげを受けるもんのと言う事ではです、それは真の信心じゃないです。信心がいうなら白熱化して、もう一生懸命になってくると、なりゃ確かに神様も一生懸命になって下さるからおかげを受けますけれども、一生懸命なったからおかげを頂くというのじゃない。
 又人間ですから、そんな一生懸命なんかというのがそんなに続くもんじゃない。そこでなら真の信心とはです、そういう一生懸命のものではなくてです一生ね、成程荒行しとる間は人が助かるけれども、荒行止ちから少し人が助かって来る様になって、慢心が出てくるそすと、すとっとおかげをおとしてしもうとる教会。また一生懸命今度は荒行でも一生懸命はじめると、又、ポツポツ人が助かり出してくる。
 そう言う様な教会が沢山あります。それであの時分は大変な御ひれいじゃったとか、人が助かったとか、なら合楽の場合だってもですよ、それであっては合楽の値打ちはないと思うです。昨日私は、その上田の先生に、私の方はもうおかげは渡しません。もう信心を渡すことに一生懸命、信心を受けとってくれりゃおかげはもうつきものですから、もうその事だけに私は一生懸命です。
 ところが中々信心をよう受けてくれませんと言った様な話をしたことでした 皆さんがどれだけ一生懸命拝まれでも、参られもです、それはそれだけのおかげは受けましょうけれども、その一生懸命参られたり拝まれたりがです、いわゆる真の信心がわかって行くから有難いのであり、楽しいのでありでお参りなさっとる信心でなけれは、あの世この世通して、おかげを頂けれると言うことにはならんのです。
 そこでです御理解六十九節に、信心は容易いものじゃとおっしゃっとられる。信心が容易いものになってこなければ駄目だと言う事をです、それは人のたまがるような行をする。とてもあげな信心は真似がでけん。だから真似の出来んごたる信心でなくて、誰でもが真似の出来る信心。信心とは容易いものだというところまでの皆さんが分るところまでの信心をしとかにりいかん。そん為に荒行はいいでしょう。そん為に日参り、夜参りはなさるならいいでしょう。
 信心が容易うなるまでです、いうなら信心というものは、楽しいものだ、有難いものだ、こんな有難いもはないと分る所まで、皆さんの信心が進められて行くなら、それから後はいよいよ神様へ近づいて行く信心が身についてくると私は思うのです。信心が身につく、いわば教えが身につく、いうならば、自動車の運転をしならうまでだとしならうまでがむずかつかしい。しならろてしまうたら、いうならだれでも運転免許を取るまでは難しいけど、とってしもうたら後は、楽に運転が出来にようなものだ。
 信心もそうです。一つ神様から免許でも受けると御神格の一つも受けられる位な信心、生きても神、死にても神と、丁度神様が太鼓判をおしてくださるような、信心を身につけて行くという事。そこにはね信心の難しさというものではない。表行でもなからなければ、日参り夜参りでもない。そういう例えば信心が容易うなって来る所からです、おかげも容易う頂けて来る様になる。それがお徳です。
 そこで信心さして頂くに従ってです、心がいわゆる和らいできよるか、心が豊かになってきよるか、心が美しゅうなってきよるかね、ここをみれば一番よくわかるわけです。ちょいとすりゃ、もう腹が立つ、ちょいとすりゃもうすぐいらいらする。まあ何と浅ましい心じゃろうかと、自分の心の中にそういうものがです、段々とりのぞかれて行って、心が一年、一年有難うなって行く。
 信心すれば一年一年有難うなってくるという信心でなからなければ、真の信心とは言えない。だから一年一年有難うなって行くのですから、ゆるがせにされるだんじゃなか。楽しゅうてこたえん、有難うしてこたえんなりに、信心は進められていくもである。そういう信心をどうでも身につけて頂きたいと私は思います。そこに初めてです、生きても神なら、死にても神、生きたも死んでも天と地とはわが住かである。私はそれは分らんけれども、教祖の仰る事がそうだろうと思う。
 死んだからというて天地以外に行くところはなかろうと思う。けどもその天地の中にあってです、私共がいうならば、幸福の条件の全てを揃えて、この世でも行けれるならば、あの世でもその条件をもち揃えた信心をもって、あの世行きをするという程の信心を身につけていきたいとこう思う。それを例えば、一生信心しましたというても、只もうおかげを頂く為に一生懸命参りました、拝みましたという信心ではね、そのおかげはあの世にはもって行かれん。
 真の信心させてもらうからこそ、真の徳が受けられる。その真の徳だけがあの世にも持って行けれるものですから、只おかげだけなら、私はこれはあの壱岐の教会だけの事ではありません。もうあちらこちらの話を聞きます、沢山の教会のその始めのときには、大変な難行苦行して道がひらけとります。だから難行苦行したからおかげを頂いたじゃなくて、難行苦行さして頂くうちにです、昨日の御理解じゃないけれども、神様も楽しいなら、私共も楽しいという合楽的信心ね。
 いうならば、そういう信心を身につけさせてもらう。楽しゅうなってくるのですから容易いです。おかげを頂くからの信心から、本当にお徳を頂くから、心が神に向かって行くから自分の心がいよいよ、自分の心が嘘みたいに心が和らいでいきよる。嘘みたいに心がこれが豊かに大きうなって行きよるじゃろうと思われる位なものが自分の心に感ぜられる信心をです、いよいよ身につけて行きたいと思うですね。
   どうぞ。